愛希さんの凄さを感じた新しい「エリザベート」~病んでない「エリザベート」に共感~
個人的なエリザベート観と感想なのでご了承ください。
現時点での「愛希さんエリザベート」の印象です。
「優しくて弱くて守ってあげたくなるけど、助けを求められない人」
「病んでない人」
自由になれないことに嘆き悲しむ「一人の女性」です。
親近感を抱く女性。
私の中で「エリザベート」は、「病んでいる」人です。
周囲に心を閉ざしていき、「死」に魅了されていく人。
「エリザベート」は、大きく2パターンに分かれる印象があります。
・歳を経るにつれて、心を閉ざし哀しみが全面に表れる人(儚げ)
・強がって見せるけど、内面は弱ってる人
どちらも、段々と、心が病んでいき、表情がなくなる印象。
でも、「愛希さん」は、上記のような印象はなく「病んでない」。
史実では「鬱病」や「拒食症」やら、病的だったことが書かれてます。
なので、その事を含めて先入観を持って観たので、違和感を抱きました。
ただ、史実も「推測」の域。
そもそも、この作品自体、「死」が存在して「死を愛する話」自体フィクションです。
「病んでいるように見える行動」は、「病気っぽい」です。
「愛希さんエリザベート」は、必死に生きようともがく女性で、よく打ちひしがれて、すごく泣いています。
その心情にとても共感してしまい、泣きました。
「トート」への「愛」も(現時点では)、あまり感じません。
過去の作品で、「型」と「先入観」を持って観れば、違和感があります。
でも、「死」が見えない存在なら、
・必死に自分らしく生きようともがき、置かれた境遇に嘆き悲しむ女性
・「死」は常に、傍にいても、見えていないようにふるまう
ここに、説得力があると、ふと思った2回目の観劇。
「再演」のフィルターを通すと違和感を抱きますが、フィルターがなければ、違和感のない「一人の女性」の生き方が描かれてます。
そして、すごく「共感」できます。
歴史の人物は、いろんな描かれ方をするので、ドラマ性のある人物の方が魅力的でそのイメージで固定されてしまいがちです。
「あなたには頼らない」と「トート」に向かって、どんなに弱々しくて泣いていても、はねのける「愛希さんエリザベート」。
「トート」への「愛」に揺れてないように見えました。
私が観た時、フランツが寝室に訪ねてきて拒絶した後、「トート」が忍びよってきて、腕に抱かれていても、「愛希さんエリザベート」泣いていても、「トート」を最初は見ないです。「見えない」から。
初観劇の「珠城トート閣下」が能面に見えただけに、二人の関係が良く分からなくて、イマイチと思いました。(失礼)
でも、2回目観た時、「エリザベート」を過去の枠に捉われずに考えたら、こんな女性だったのかもしれないと思いました。
「珠城トート閣下」も変化し、「感情」が芽生えてきました。
(観ていて分かりにくかったのか、舞台で変わったのかは分からないです。)
このコンビが考えた「関係性」を、見せているのかもしれない、と思いました。
「病んでる」に捉われなければ、魅力的です。
観客席は泣いてますもの。
再演が繰り返され、捉われているのは私の方でした。
と、解釈が変わるのが面白くてやめられない『エリザベート』。
「宝塚の舞台の最後」は、魅力的なダンスと共に「愛希さん」が自由に舞台を駆け巡る姿を観たかったと、未練はあります。
でも、ラストのデュエットダンスは、技量に改めて感嘆すると共に、想いが凝縮されていて、「宝塚の娘役」の集大成を感じます。
おもちゃ箱のような魅力で、最後までびっくりで、良かったのかなとも思います。。
退団公演なので、「愛希さん」の「エリザベート」は「宝塚での集大成」
「珠城さん」は、これからも「宝塚の男役」で今回は「通過点」なので「成長する人」
その差を感じました。
そして、独自の「エリザベート」を創り上げ、やっぱり支持を得る。
希少で、貴重な娘役さん「愛希さん」に涙し、残りの観劇を目に焼き付けます。
きっと、また感想は覆しますが、「愛希さん」の素晴らしさについては覆さないです。
『エリザベート』が始まると、頭が『エリザベート』一色で、全ては後回し。
色々滞らせており、つけが怖いです・・・
さいたまんぬ