地震
今朝の地震、怖かったです。
今朝は、体調が悪化して寝てました。
阪神大震災時も風邪で寝込んでいたので、同じ状況下で、思い出しました。
今でも、地震が来ると、身体が一瞬固まります。
阪神大震災の時、地震直後は、家は倒壊しなかったので、ガラスが散らばる部屋を片付けてました。
ラジオの第一報は「階段でご老人が転倒した」でした。(停電)
地域差があったので、自宅周辺は外見上、大丈夫だっただけに、後から、神戸の学校が倒壊したこと等を知ることになりました。
(当時は学生でした。)
なので、停電してるし、様子も分からないし、風邪だし、学校は休むことにしました。
当時、すでにヅカファンでした。
震災の日は、「天海さんの公演チケット発売日」だったので、学校へ行かないなら、電話がかけられると、チケットを取るため、電話をかけました。
でも、全く繋がらない。
やっぱり人気なんだわ、と思っておりました。
母に「電話するなら、おばあちゃん家にしなさい」
と言われて、電話しても、やっぱり繋がらない。
そこで、電話自体が繋がらないことに気付いた呑気さ。。。
家中、ガラスの破片なので、片付けしつつ、ガスも電気も水道も止まっていたのに、発売日に電話する呑気さ。
事の重大さは、家の外に出て分かるものです。
とりあえず、母と、祖母の家へ車で向かいました。
(父は会社へ様子を見に行きました。)
途中から、道路が陥没し始め、祖母の家周辺に近づくと、あちこちの家がぺしゃんこになっている。
なので、車が動かせない場所から残りの道を、一人で祖母の家まで、走りました。
祖母の家は、2階が1階になっておりました。周辺の家も同様。
ぼーっと、立っていたら、母が走ってきました。
「おばあちゃんを呼びなさい!!」
屋根に上って、隙間から覗き込みながら読んでも何も聞こえません。
というか、呼ぶのも、正直怖いのが、率直な感想です。
それまで惨状に遭ったことがないので、声がしても、かえって怖い。
そのうち、お隣さんが駆けつけてきて、単身赴任でたまたま祖母宅に泊まっていた、叔父(母の弟)が埋まっていたのを、みんなで掘り出したこと、病院へ運ばれた話を聞かされました。状態は分からず。
祖母については、お隣さんが声をかけても反応がないので、とりあえず、今度は叔父のいる病院まで走りました。
病院は、床に怪我をした人たちが並べられてました。
シーツをかけられてる人は見ないように、病院内を探しまわりました。
尋ねて答えてくれる余裕のある人も、分かる人も、病院にはいません。
あのとき、人工呼吸されている人の家族や友人が呼びかける声は忘れられません。
(見れなかったので、声だけ)
叔父は、見つかりました。
太腿が骨折しているらしい。
命に別状がないので、診察は後回しなので、それだけ。
再び、祖母の家へ戻るものの、叔父も一人にできず、電話も繋がらないので、母と二人で走った記憶以外は、憶えてません。
父とは、その日連絡が取れたのかも憶えてません。
その晩は、病院に泊まりました。
床で知らない人と、ざこ寝をしたのも初めてでしたが、病院で戴いたのは、おにぎり1個と紙コップに半分以下の味噌汁で「これしかないのよ」と言われたのも初めてでした。
その日から、公園や避難所での、おにぎり生活が始まるのですが、食べ物が戴けただけ、マシでした。
冬で腐りにくい季節だったことも、色々な面で幸いでした。
3日後、祖母は掘り出されました。
それまで毎日、声をかけに病院から祖母の家へ行ったのは憶えてますが、
ある日、「もういいよ、あそこにいるから」
と指をさされた先に、シーツをかけられた塊がありました。
近くで土砂崩れがあり、何百人も埋まっている人たちは生きてるかもしれないから、そちらが優先なんだと、自衛隊の人が通っても、止まってくれませんでした。
祖母は畳に載せて、近所の人たちが、小学校の安置所へ運んでくれました。
記憶が断片的ですが、自宅と小学校と病院の往復が数日続きました。
車のガソリンがなくなった時、片道2時間以上歩き、病み上がりでしんどくて、弱音を吐いたのも、1週間後位でした。
直後は、訳が分からなくて、茫然としていました。
これからどうなるんだろうという感情は、1週間後位に、浮かびました。
食べ物は、外でもらえるという事と、コンビニへ行ったら、りんごジュースの紙パックしか売っていなかった事から、「りんごジュースは人気ないんだな」と思い込み、見ると思い出すので、今もあまり好きではありません。
災害は突然起こるし、必要なものは、状況によって違うので、埼玉でも防災対策はしてません。
全部埋まったら、取り出したいのは、「お金とカード」です。
叔父に頼まれて、財布を探して取り出したものの、他は、雨に濡れて、何も残らなかったです。
震災泥棒にも遭い、祖母の家の屋根に引っ張り出された着物が散乱してました(安物)。
ぼんやりしている人もいれば、しっかり買い物へ行ったり、火事場泥棒をする人もいるので、「リスト」にしておくのは便利かなと思いました。
(あくまで、さいたまんぬの自論なので、参考にはしないでください。りんごジュースもたまたま残っていたと思うので、偏見です。)
阪神大震災時は、携帯電話もなく、病院や避難所へ行ってたので、被害の規模をテレビで知るのは、ずっと後です。
「宝塚大劇場」公演が中止になった事も、道端に落ちていた新聞記事で知りました。
阪急神戸線が不通だったので、西宮北口駅から神戸へと、同じ方向へ無言で歩くリュックを担いだ人々の姿をぼんやり眺めていました。
親戚や知り合いへ物資を届ける人たちです。
(祖母の家が沿線沿いだったので。)
阪神大震災は、もう何十年も前のことです。
「揺れ」は身体が忘れてないと、改めて実感しました。
今日は、ブログを書いている位なので、実家は物は落ちたものの、ライフラインの異状はなく、平穏です。
母は、フィットネスへ行き、休みだったと帰宅してきました。
「ボイラー」故障らしいです。
向かいにある「宝塚大劇場」の本日の公演は「未定」ですね。
祖母の家より、「チケット」取りの電話を優先させたのは、状況を把握していなかったとはいえ、自分の薄情さを自覚し、その後の行動で、自分をごまかしていたものの、非常時に出る行動に、人間の本性が表れることも、この時、実感しました。
あの頃は、防災グッズがなくても、見知らぬ人たちに助けられ、何とかなりました。
薄情さを知ることもありましたが、普段は、感謝の思いの方を心に留めるようにしています。
東北地方太平洋沖地震も、テレビや新聞記事では語られていない、個人の経験や感じる思いは、一人ずつ違います。
災害は、「予防」を呼びかけられても、「心の準備」をしていても、防げません。
さいたまんぬが、「埼玉」へ移住したのは、あの震災の年でした。
「逃げられる場所がある人はいいよね。逃げるところがないから、ここにいるしかないもの。」
と、言われました。
確かに、阪神大震災の時、知り合いでも、身を寄せる場所がある人から順にいなくなりました。
さいたまんぬは、祖母の家が全壊したので、もちろん、なかったです。
確かに、埼玉で地震が起きたら、実家へ逃げるのかな?と考えることはあります。
ただ今朝、寝ぼけていたので、埼玉にいると勘違いし、第一声が
「星くん、宙ちゃん、どこ?」でした。
実家にも「犬」がいるのに、ごめんなさい。
今は、(「社長」と家で)「お留守番」してますが、震災があったら、避難所は「犬」がいるので、無理だろうなと、諦めてます。
「潔癖症で、集団生活は無理」と仰っている「お隣さん」(ご高齢)と、その時、状況に応じて考えます。
「揺れ」がかなり大きくて、久しぶりに思い出しました。
「歌劇」と無縁な話を長々と失礼しました。
話せる位に、時間が経過したのと、被害が話せる程度だったので、それも人によりけりです。
最後にせっかくだから「歌劇」の話題でも一つ。
「安寿ミラさん」の退団公演を、梅田の劇場へ、母と観に行った記憶はあるので、それ位、心に余裕ができていたのかなと思います。
受けた「心の傷」への一番の薬は、「時間」かなと思います。
なので、どうにもならない時は、ゆっくり待つしかないですね。
これも、あくまで個人的な価値観です。
さいたまんぬ